2024年3月13日

This War of Mine

一般市民の目に映る戦争の景色。
それは、あなたの戦争の物語。

This War of Mine』は、ポーランドの11 Bit Studiosによって開発・販売された2014年の作品である。戦時下の町(モデルは1992年のサラエボ)に暮らす一般人を操作して、終戦まで生き延びることがゲームの目的だ。
これまでの戦争を舞台としたゲームが兵士の戦いを描いたのに対して、一般人のサバイバルを描いたこと。そして、プレイヤーが「ゲームの目的達成」と「倫理観」の二者択一を迫られる展開を巧みに組み込んだことで、今なお非常に高い評価を得ている。

そして何より、私にとって『This War of Mine』はゲームの可能性を示してくれた作品であり、またこのようなゲームレビューブログを書く切っ掛けともなった作品だ。自分の生存と他者の犠牲の板挟みになったあの瞬間は、まさに私が何かに目覚めた瞬間だった。
それは生涯の中でも数えるほどしかない、一気に自分の世界が広がる体験である。

なるほど、これが「ゲーム」というものか。

戦場には被害者と加害者しかいない。

仲間たちは次々と消えていった。ある者は物資の探索中に命を落とし、ある者は絶望して去った。戦争を生き抜くことへの希望を信じて肩を寄せ合っていた住処は、歯が抜けたように寂しくなり、かわりに絶望が住まう。
残されたのは、子供好きという以外に取り柄のない中年女性のクヴェタと、幼い少年ミシャの二人。クヴェタは強盗の襲撃を受けた際、怪我をして、足を引きずっている。ミシャの精神は崩壊の入り口に立ち、イマジナリーフレンドと会話するか、ただ泣き続けるかして一日を過ごす。

食糧はとうに底を尽いた。毎晩のように住処を強盗に襲われ、奪われ、闇マーケットで交換する物資もない。

すでに万策尽き、他に手はない。
私はクヴェタに自衛用の拳銃を握らせて、老夫婦が住む「静かな家」に向かわせた。食料や薬品などを調達できる場所はもうそこしかないと分かっていたから。

家に押し入ったクヴェタに、老夫婦は抵抗しない。食べ物と薬を物色するクヴェタの後ろについてきながら、弱々しく懇願するのみである。

 お願いだ。妻の薬を盗まないでおくれ。
 妻を傷つけないでくれ。調子がよくないんだ。

かわいそうだけど仕方ないよね、という程度の気持ちで押し入った私は、モニタの前で完全に固まってしまった。この老夫婦にとっては私は、夜な夜な私たちの住処を襲ってくる強盗と同じ存在なのだということに気付く。
でもどうしろというんだ。この食料と薬を持って帰らなければ、ミシャもクヴェタも確実に死んでしまうんだよ!

 食べ物をとらないでおくれ。少ししかないんだ。
 そんなことをしないといけないのかい? 正気に戻って!

いま私に問われているのは、軍を東に送るか西に送るかではない。剣を買うか、弓を買うかでもないし、スキルポイントの使い道でもない。
老夫婦を犠牲にして自分たちが生き残るのか。人としてどうあるかが問われているのだ。

私にとって、そこはもうゲームの中などではなく、1992年の包囲下サラエボに違いなかった。

そう、戦場には被害者と加害者しかいない。
どちらになるか選ばなければならないのだ。

幾たびかの昼夜を越え、終戦の帳を目指す。

This War of Mine』のゲーム構造はシンプルだ。生産の昼パートと探索の夜パートに分かれ、これを交互に繰り返しながら進行していく。終戦までの30〜45日の間、生き残ればゲームクリア。

昼は住処で食料や水を生産したり、生活に必要な設備を製作したりする時間だ。夜に襲ってくる強盗に備えて壁や窓を補強する必要もある。また、近所の住人が助けを求めてきたり、物々交換の申し出を受けたりといったイベントもしばしば発生する。
基本的に昼パートでは直接、安全を脅かされることはない。

一方で夜は危険な時間帯だ。キャラクターを一人、街に派遣して物資を調達するのだが、街のあちこちに武装したNPCが待ち構えており、最悪、キャラクターをロストしてしまいかねない。また強盗が住処を襲撃することがあるため、これを防衛する必要もある。

雄弁なるゲーム内経済。ここは戦地である。

昼パートにおける生産は、いわゆるコロニーシムと呼ばれるジャンルに相当するが、昨今の同ジャンルの作品と比べると、非常にシンプルだ。寝床となるベッドから始まり、料理のためのコンロや、雨水をろ過して飲料水を作る貯留槽など、お馴染みの設備を設置していくことになる。
それぞれの設備は一応、アップデートできるが、ほぼ全てが一段階で頭打ちになり、新しい設備や技術をアンロックしていくような余地はあまりない。

また、設備を整えることでハーブやタバコ、薬などをクラフトすることもできるが、設備の開発に手がかかる割に生産量はあまり拡大できず、こちらもとにかく効率が悪い。

生産に関する技術ツリーに発展性がなく、生産量も少ない。これは言い方を変えると、ゲーム内経済が非常に規模が小さく、貧しいということになる。

通常のコロニーシムやサバイバルゲームは、コロニーや拠点が発展・拡大していく達成感の連続がゲーム体験のコアである。人口が増えたり、新しい設備を作れるようになったり、苦しめられていた災害からコロニーを守れるようになれば、プレイヤーは喜びを感じるはずだ。

だから一般的にはゲーム内経済は豊かにして、発展の余地を大きく確保し、プレイを進めることで状況が改善されていくように設計される。そうすることで、プレイヤーのゲームを進めていくモチベーションを高めていく。

例えば『RimWorld』を見てみよう。
ゲームはわずかな物資と共に未知の惑星に放り出されるところから始まる。状況だけ見れば『This War of Mine』以上に悲惨で絶望的な状況だ。
しかし『RimWorld』に『This War of Mine』のような閉塞感はない。むしろプレイヤーは、発展への期待と希望をもってゲームを進めていく。

どこかポップで可愛らしげなビジュアルだけが、プレイヤーの心を弾ませているのではない。
プレイを始めれば木材や鉱石を集めたり、農業で食料を栽培できることに気付くだろうし、なにより技術ツリーからは、これからやってくる楽しい未来が予見できるはずだ。

豊かなるゲーム内経済。
明日はきっといい日になる!

しかし『This War of Mine』は、それとは対極だ。
物資は常に不足している。自前で物資を生産できても焼け石に水。わずかな食料を得るためにネズミ捕りを仕掛ける毎日。
そして設備のアップグレード先をのぞいても、状況が好転することを示すものは、なにもない。

もちろんこれは、戦地となった街の苦境を表現するためのデザインだ。
This War of Mine』が素晴らしいのは、このゲーム内経済のデザインによって、作品の舞台がどのような場所なのか、どのような状況なのかをプレイヤーに伝えることに成功している点である。

ゲーム内経済は通常、ゲームバランスの調整のために存在し、それ以上でもそれ以下でもない。
しかしゲーム内経済は、我々が想像する以上に雄弁な語り手であることを『This War of Mine』は示している。世界観や歴史、あるいは物語までもを描き出すポテンシャルを秘めているのだ。

夜。命をつなぐステルスプレイ。

This War of Mine』がゲームメカニクスを用いて、世界のあり様を示しているのはこれに留まらない。夜の探索パートでもその試みは異彩を放っている。

生産に期待できない以上、夜の探索が頼みの綱だ。プレイヤーは毎夜、キャラクターを一人選び、場所を一ヶ所、指定して探索させる。

しかし場所によっては武装したNPCが住んでおり、プレイヤーを発見すると攻撃を仕掛けてくる。そのためプレイヤーはこっそりと探索する必要があり、NPCの視界に入らないよう、音を立てないよう、慎重に行動しなければならない。

もし見つかった場合、走って逃げ切れればよいが、追いつかれたら負傷、最悪の場合は殺されてしまう。逃げ切れた場合でも、物資を十分に持ち帰ることができなければ、たちまちコロニーは崩壊の危機に直面することになるだろう。

この夜の探索パートは、いわゆるステルスプレイが求められるわけだが、やはりゲームシステム自体は非常に簡素な仕組みである。簡素すぎて、ややアンフェアな場面もあるくらいで、『メタルギアシリーズ』や『ディスオナード』などの名作ステルスゲームのような完成度とは、比べるべくもない。

しかしここでも、『This War of Mine』は他のゲームにはない、際立った特徴を見せる。
リスクとリターンを、(おそらく)意図的にアンバランスにしているのだ。

行くしかない。何もなくても。

通常、ハイリスクにはハイリターンで応える。これがゲームだ。
強いモンスターが大集合しているダンジョンには、価値の高い宝物がある。ステルスゲームにおいても、警備が厳重なところには、貴重なアイテムが隠されていなければならない。

ところが『This War of Mine』ではそうはならない。得られるリターンは変わらないのに、リスクばかりが上昇していく設計になっているのだ。

探索は目的地を一ヶ所、指定するところからスタートする。
ゲーム開始時は、あまり危険のない場所を選んで探索することができるが、物資はリスポーンしないので、ノーリスクで物資を調達できる場所はどんどん少なくなっていく。

そうなると選択の余地はない。リスク覚悟で危険地帯へと探索の足を伸ばし、何としても物資を持ち帰る必要がある。何しろ拠点での生産にはあまり期待できないのだから。

では危険な場所を探索して、そのリスクに見合った物資を獲得できるかというと、そうではない。多少は高価な物資が拾えることもあるが、リスクの上昇にはまったく見合わない。

この要因ははっきりしている。ゲーム内経済が貧しいからだ。
ゲーム内に登場するアイテムのバリエーションが少ないため、リワードの質の向上を、探索のリスク上昇に比例させる余地がない。
よって、得られるリワードは変わらないのに、リスクばかりが上昇していくことになる。

僕にその手を汚せというのか。

こうしてプレイヤーは巧みに、そして真綿で首を締めるように、より窮地へと導かれていく。
そして探索のリスクとリターンが釣り合わなくなれば、その選択は静かに首をもたげてくる。

盗みと殺人。倫理をかなぐり捨てて、なりふり構わず生き残るという選択だ。

その入り口は、ゲーム序盤からそこかしこでプレイヤーを見つめている。
すぐ手を伸ばせば他人の物を盗めるし、息をひそめている無力な市民もすぐに見つかるだろう。

ゲームが順調に進行している間は、ただの背景のように気を留めなかったそれらが、生き残るための最後の望みとして目に留まる。

自分が食べるために、他人の食料を盗むのか。
自分が生き残るために、他人の命を奪うのか。
あなたならどうするだろうか。

それはワンクリックで実行できる。攻撃して、ドロップしたアイテムをインベントリに移すのだ。
いつもやってることじゃないか。
しかしこれが、そう簡単なことじゃない。

非倫理的な選択肢を用意しているゲームは多い。
『Grand Theft Auto』で通行人を殴ったり、撃ち殺したりするの簡単だ。しかしこれらは、あくまでプレイヤーの裁量に委ねられており、そうしなければプレイが破綻するという構造ではない。

『ロマンシング・サガ』において、ガラハドを殺してアイスソードを奪い取っても、あるいはそうしなくても、どちらでも構わない。
『タクティクス・オウガ』でバルマムッサの町を虐殺するしないに関わらず、ラムザの物語は終わらない。

しかし『This War of Mine』は、倫理とゲームオーバーを天秤にかける選択を、ゲームメカニクスの根幹に組み込んでいる。プレイヤーはゲーム中のお遊びとしてではなく、本気の倫理的な選択を求められるのだ。

恐らくあなたは自分の人間性が問われているような気分になるだろう。その決断はプレイスキルを求められるよりも、ずっと難しいものになるはずだ。

また非倫理的なアクションを起こすことによる、ゲーム的なペナルティもある。
キャラクターには、『Darkest Dungeon』の正気度のようなステータスが用意されていて、盗みなどを行うと、キャラクターの精神は低下していき、やがては鬱病のような状態となる。こうなったキャラクターは何もアクションを起こせなくなり、ゲームの攻略上において非常に大きな支障となる。

これはキャラクターをロストするよりも都合が悪い。精神が崩壊したキャラクターは何も貢献できず、食料と水だけを消費していくからだ。

アイアムアヒーロー。お手軽に、何も背負わず、仮初めに。

『This War of Mine』は、このような倫理的な選択をあちこちで問いかけてくる。

ゲーム序盤で子供が保護を求めてくることがある。
これを初見で断る人がどれくらいいるだろうか。

多くのプレイヤーが子供を受け入れて、守ろうとするだろう。自分なら守れると信じるはずだ。これまでのゲームではずっとそうだったから。
しかし『This War of Mine』において、子供は何もできることはないので、単純に食料の消費が早くなるだけだ。いいことは何もない。

私たちはゲームでヒロイックな行動をすることに慣れている。
それは善行を積むと、なにか見返りがあるという、ゲームのお約束を知っているというだけではない。

私たちは、ゲームの中でくらいヒーローになりたいのだ。
そして「ゲーム」はいつも、それに応えてくれる。
すぐに、簡単に、思うがままに。

しかし私もあなたも分かっているはずだ。

本当の自分はヒーローなんかじゃない。困っている人を助けるような強さはない。見て見ぬふりをして通り過ぎて、もっともらしい言い訳をして自分を守る。困難に立ち向かう勇気など、ハナから持ち合わせてなどいない。
だからこそ、ゲームの中では違う自分でいたい。

『This War of Mine』は間違いなく、ゲームにおける、そんな私たちの甘っちょろいヒーロー願望を見透かしている。それを利用して、まとった衣を剥ぎ取り、そして剝き出しの自分で立ち向かってくることを求めてくる。

見たくなかった自分を見せられる体験。
しかしそれは同時に、本当に、本当に、素晴らしい瞬間だ。
そこはゲームでなければ訪れることのできない場所だから。

あなたの戦争の物語。

様々な困難を乗り越え、終戦を迎えればゲームは終了。
終戦はゲームスタートから30~45日後。終わりがはっきりと分からないので、やきもきしながら待つことになる。

ゲーム終了後の達成感は皆無だ。
やっと終わってくれたという安堵と、疲れと、もしかしたら心に刻まれた小さな傷。

ここまで書いた通り、『This War of Mine』は私たちを究極の選択へと導く、巧みなメカニクスを備えている。

しかし実は、これらの困難を回避して、無事に終戦を迎えることは十分に可能だ。
しっかりとリソース管理をして、いま必要なものが何なのかを把握し、リスクとリターンを正しく判断できれば、心を切り刻まれるような選択を迫られることもない。

実際のところ私も何度か、何事もなく終戦を迎えることができた。プレイを重ね、ゲームの経験と知識を獲得すれば、誰もが可能なはずである。

しかし皮肉なことに、それは『This War of Mine』の本質から遠ざかってしまうことを意味する。
ゲームをうまく攻略すればするほど、ゲーム体験の価値が落ちていくのだ。

そして、このプレイによる振れ幅が、ゲーム体験の価値を高めていると言っていいだろう。自分のゲームプレイが、間違いなく自分自身の物語であったと確信できるからだ。

これは制作の11Bit Studioにとって、かなり勇気のいる選択だったはずだ。自分たちの提供したい体験が、まったく伝わらない可能性があるのだから。

しかし、この振れ幅を許容したからこそ、
そして選ばなかった未来があるからこそ、選んだ未来に意味がある。

戦場には被害者と加害者しかいない。

老夫婦たちの家で、私はもう、どうすればいいか分からなくなっていた。
彼らはただひたすら、懇願してくるのみだ。

 食べ物をとらないでおくれ。少ししかないんだ。
 そんなことをしないといけないのかい? 正気に戻って!

冷蔵庫には食料。棚には薬。これを持ち帰れば、ミシャとクヴェタはこの戦争を生き残る可能性が高い。しかしその代償は明らかだ。
被害者となるのか、加害者となるのか。
私はモニタの前で固まっていた。

私は長い時間、そのまま逡巡した。
そして、挙句、結局、とうとう、走ってそこから逃げだした。
何も得ず、何も盗らずに。

私が老夫婦の家から走り去ったのは、どんな状況であろうと、人の命を奪うのは良くないという正義感からではない。
単に私は決断できなかったのだ。
被害者と加害者の二者択一という戦地の現実に、どうすることもできなくて、情けなく逃げだしたのだ。

いつも通り、ゲームの中で安っぽいヒーローを演じられると思っていた私は、完全に叩きのめされた。

肩を落とし、トボトボと帰宅するクヴェタ。相変わらず床に座り込んで泣いているミシャ。
私は心の中で何度も、彼らに謝罪していた。
「ごめんなさい、ごめんなさい、本当にごめんなさい」
あるいはその時、私は泣いていたかもしれない。

そして翌日、ミシャは短い生涯を終え、その2日後にクヴェタが死んだ。
ゲームオーバー。
私は生まれて初めて、自分の意思でゲームオーバーを選択した。

自らが行動し、選び、決断する。そこから生まれる物語。
映画では味わったことのない体験に、私は衝撃を受けていた。
今見ている景色が、静かに変わっていく。いつか見た、この感覚。

すごいな、これが「ゲーム」というものか。

『This War of Mine』。
それは私を変えた物語。

1件のコメント

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です