2024年6月18日

Victoria 3

ゲームは世界をどう記述するか。

Victoria 3』。Paradoxの歴史ストラテジーゲームの『Victoria』シリーズの13年ぶりの最新作である。

Hearts of Iron』や『Europa Universalis』の両看板シリーズに比べると、地味ではあるが根強いファンも多い。
大きな特徴は、両看板が戦争と征服・拡大を志向しているのに対し、『Victoria』は経済の発展と、それに伴う社会構造の変化を描いてる。ストラテジーゲームとしては、かなり挑戦的な作品だ。

私はかねてより、Paradoxの歴史ストラテジーゲームの最高傑作は『Victoria』であると考えてきたが、その新作が10年以上の時を経てリリースされたことは、もうその事実自体が喜ばしい。シリーズ終了も覚悟していただけに、Paradoxが『Victoria』を忘れないでいてくれたことは素直に感謝したい。

女王の帰還である。
リチャード・アークライトの機械の歌を背に、10年分の歓喜とともにお迎えしよう。
空には自由と権利の花弁が舞う。
さあ再び、革命のときだ。

ベル・エポック、花の都は華やかりし。

Victoria』の舞台は1836年から1936年までの世界。産業革命により、一般市民の富が飛躍的に増大し、大衆における消費文化が始まった時代である。

特に第三共和政下におけるフランスの首都パリでは、文学、演劇、音楽などが百花繚乱に花開いた。我々、日本人のイメージにある「花の都、パリ」は概ね、この時代のパリを指していると言っていいだろう。

一般市民がついに表舞台に登場し、国家のステークホルダーを担い始める100年間。俗にベル・エポックと呼ばれる時代である。

Victoria』はこの人類社会の一大転換期において、自国を近代国家へと脱皮させつつ、経済力を発展させて世界に覇を唱えるゲームだ。領土拡大は多くの場合、経済伸長のための手段であって、目的そのものではない。

しかし『Victoria』で経済を発展させるのは簡単ではない。現実の国際経済と同様に、様々な要素が複雑に絡み合う。

あなたは、この複雑さを楽しめるだろうか?
もし国際経済の仕組みや、社会構造などに興味があれば、『Victoria』は唯一無二のゲームとして、あなたの期待に応えてくれるだろう。

眼下で変わりゆく国家。
広がる都市。そして、つながる鉄道。

ゲームをスタートして、最初に驚かされるのが、ビジュアル面での大幅な進化である。
世界地図を立体的に表現し、ジオラマのように世界を眺めることができる。

工場を建設していけば、町の都市化が進み、それがマップ上の見た目に反映されていく。鉄道を敷設すれば、列車がモクモクと煙をあげながら、町と町を繋げていくのだ。
日本のような発展の余地が大きい国でプレイしていると、100年の間に国土がみるみる変貌していく。そしてこれを眺めるのは、『Cities Skyline』に通じる楽しさがある。

これまでの『Victoria』シリーズの明確な弱点の一つが、ビジュアル面だった。
単純に面白そうなゲームに見えないのだ。

戦争で領土を広げていくストラテジーゲームであれば、見た目にも変化が現れるのだが、経済発展が目的の『Victoria』では、経済力を表す数字が変化するだけ。プレイヤーを惹きつける派手さに欠けていた。

しかし『Victoria 3』では、このジオラマ風マップのおかげで、プレイヤーは国家の発展をマップ上で視認することができる。これは大きな進化である。

願わくば、ビジュアルのバリエーションがもう少し欲しい。さらにプレイヤーが主体的に景観を作り上げることができるようになれば理想的だ。
このあたりはDLCに期待したい。

世界市場にさよならを。

Victoria 3』の肝となる経済はどうだろうか。

まず何より歓迎したいのは、国別のマーケットが用意されたことだ。フランスにはフランスの、日本には日本の市場が存在し、それぞれで製品の価格が変動している。
Victoria 2』までは、「世界市場」というオーパーツが存在していて、そこを通じて各国が貿易をするという妥協の産物だったが、それがようやく解消された。

これにより、例えば貿易協定を結んでいるイギリスで価格が高騰している製品を優先して生産する、といった経済戦略がとれるようになった。
国内、あるいは国外のニーズに合わせて生産施設を建設していき、技術革新で効率化するというロジカルなゲームプレイは、より洗練されたと言っていいだろう。

しかし一方で、前作から10年以上の歳月が流れたことを考えれば、さらなる飛躍を期待したかったポイントもある。

ドイツの自動車と、ペルシャの自動車は同じ自動車なのか。

特に大きいのは、どの国でプレイしても、産業を発展させていく過程と結果がほとんど同じになってしまう、という問題だ。
ほとんどの場合、農業や鉱業といった一次産業から始まり、織物や家具といった初期的な工業製品を経て、最終的には電話や自動車といった高価値製品に行きつくという流れになる。
これはイギリスやアメリカでプレイしようが、日本やエジプトでプレイしようが変わらない。

しかし本来であれば、ドイツは機械産業、イギリスは造船、イタリアは織物、といったように、国によって主要産業に違いが生まれるべきだ。

この問題を引き起こしている要因のひとつが、どの国で生産されても製品の価値が変わらないという点だろう。
ドイツで生産した自動車も、ペルシャで生産した自動車も、価値は変わらない。生産量と生産効率に違いはあるが、市場では同じ価値を持つ自動車として扱われる。

生産国による品質格差を明確にしてしまうと、先進国の優位性が強固になりすぎるのかもしれないが、これでは、国による経済発展の方向性に違いが生まれにくい。

Victoria』のプレイ時間のほとんどが、経済活動の調整で占められることを考えると、これは軽視できない問題だ。どの国でプレイしても、同じようなゲーム体験になってしまうのだから。

産業革命とともに台頭する市民。その声と足音が、国家を動かす。

経済と並んで『Victoria 3』における重要なゲームシステムが、政府と法律のコントロールだ。このゲームのテーマである、「社会構造の変化」を直接的に表現するゲームシステムとなる。

Victoria 3』での国民は皆、地主、資本家、農民などのいずれかの「利益団体」に属しており、「利益団体」はそれぞれ、支持する法律が決まっている。資本家であればレッセフェールを支持し、宗教家であれば宗教学校を支持する、といった具合だ。
また反対する法律も決まっており、地主は農奴解放には断固反対だし、知識人は秘密警察に反対だ。

そして、その国で施行できる法律は、政府がどの利益団体で構成されているかによって変わってくる。

プレイヤーは、政府に加える利益団体を自由に選択できるが、これには危険が伴う。利益団体には重要な指標として「影響力」が設定されており、これが低い利益団体を政府に加えると、様々なペナルティが課せられ、経済や軍事に大きな支障をきたしてしまう。最悪の場合、反乱が発生し、国家が瓦解することになるだろう。

そのためプレイヤーは、政府に加えたい利益団体の影響力を伸長するように導く必要がある。
自由主義経済を志向するのではあれば、それを支持する資本家の影響力を伸ばすのだ。

「影響力」は、その利益団体を構成する国民の数と財力によって決定されるので、経済発展を続けていれば通常、資本家や小ブルジョワの影響力が伸びていく。しかし敢えてそれを抑制し、保守的な国家を目指すことも可能だ。

この政治と法律周りのゲームシステムは、本当によく考えられている。

産業革命に伴う経済発展により、財と影響力を持ち始める一般市民。彼らが国家のステークホルダーとして台頭し、世界の構造を大きく変えていく過程を、ゲームシステムに落とし込んでいる。
これは見事と言うほかはない。

リベラル化。一本に限定される政治改革の道のり。

しかしここでも、経済システムと同じ問題が発生する。
どの国でプレイしても、政治改革を進めていく過程と結果がほとんど一緒になってしまうのだ。

経済力を伸ばすには、君主制よりも民主制のほうがいいし、専制政治よりも普通選挙の方がいい。多文化主義の方が移民を呼び寄せて人口を伸ばせるし、経済政策も最終的には自由主義寄りのほうが効率的だ。
つまり各法律の上位下位が固定化されているため、ひたすら上位の法律を目指すプレイに限定されがちなのだ。

もちろん経済発展を犠牲にする前提であれば、プレイヤーのロールプレイ次第で選択肢はいくらでもある。アメリカで王政を目指してもいいし、日本で幕府存続を掲げるのもいいだろう。

しかしほとんどのプレイヤーが目指すであろう、経済発展に至る道のりは一つしかない。リベラル寄りの法律を段階的に制定していく以外の選択肢は、ほとんど存在しないのだ。

Europa Universalis』は領土拡大がゲームの主な目的だが、その過程には様々なバリエーションがあった。
例えばロシア帝国で史実通り東進してもいいし、コンスタンティノープル奪還を目指してもいい。イングランドであれば、新大陸の東海岸に植民地を建設するだけでなく、英仏連合王国を実現することだってできる。
プレイヤーの発想しだいでゲームプレイの幅は大きく広がるのである。

しかし『Victoria3』では、経済発展を実現するための政治改革の道のりは、ほぼ一本道だ。

最終的に経済発展とリベラル化を不可分とするのであれば、それでも構わないが、その道のりは実際の歴史がそうであったように、多種多様であるべきだろう。

戦争は経済力と技術力で決まる。戦術の入り込む余地はない。

経済と政治に関するゲームシステムが野心的に進化する一方で、もともと影の薄かった戦争は、さらに簡略化された。

戦争が始まると、当該国間の国境に戦線が形成される。プレイヤーは、そこに戦力を送り込むだけだ。ユニットを操作するようなことはなく、互いが送り込んだ戦力の優劣によって、戦線ごとに勝敗は自動で決する。基本的にプレイヤーはそれを見ているだけである。

簡略化しすぎて、逆に分かりにくくなっている面もあり、この新しい戦争システムが馴染まないプレイヤーもいるだろう。実際、戦争をしていてもあまり楽しくはない。プレイヤーの介入する余地があまりないからだ。
しかしゲームのコンセプトを考えれば、経済力と技術力が勝敗に直結し、戦術の入り込む余地を排したことの意図は理解できる。

とはいえUIや操作はもう少し、分かりやすくしなければならない。
でなければ簡略化した意味がないからだ。

外交とは、戦争と平和が重なる場所である。

一方で、外交には非常に興味深いシステムが導入された。「外交戦」である。

Victoria 3』では、領土割譲や市場開放を要求して戦争を仕掛けたとしても、すぐに開戦とはならない。まずは「外交戦」で周辺国を巻き込んだ外交的駆け引きを経て、交渉が決裂した場合のみ、戦火を交えるのだ。

外交戦が展開されている間、当事国はさまざまな条件を提示して周辺国を味方に引き入れようと画策し、周辺国はどちらの陣営に属するか、あるいは中立を保つかを決断することになる。
その結果、戦火を交えることなく決着することもあるが、もし両陣営が引き下がらなければ、ついに周辺国を巻き込んだ戦争が幕を開ける。

この外交戦が興味深いのは、戦争と平和の中間点、踊り場のような場所を用意したことだ。

これまでのストラテジーゲームにおいて、戦争はONかOFFかのどちらかだった。
しかし実際の外交では、戦争と平和はグラデーションになっており、関係国による様々な駆け引きが行われいてる。戦争とはその結果でしかない。

Victoria 3』では、その“戦争と平和の重なる場所”を表現しようとし、少なくともゲームシステム的には成功していると言っていい。この「外交戦」システムは、今後のストラテジーゲームに大きな影響を与えることだろう。

惜しむらくは、中身がまだ伴っていないことだ。
外交戦における駆け引きはまだまだ単純で、できることも少なく、このシステムの革新性に見合うような存在感をゲーム中で示せていない。
お世辞にも、虚々実々の駆け引きが実現できているとは思えないのだ。

このシステムが十分に機能するには、国家によるAIの指向性の違いなどが必要になると思われるので、真価を発揮するのは今後のアップデート次第ということになるだろう。

アメリカがアメリカであるために。
ドイツがドイツであるために。

ここまでは『Victoria 3』における、個々のゲームメカニクスについて見てきた。
しかし私がこの『VIctoria 3』で最も注目したいのは、Paradoxが試みるゲームデザインの大幅な方針転換についてである。

前作の『Victoria 2』では奇妙なことが起きる。
例えば、アメリカで無理やり帝政を敷いたとしよう。人権を抑圧し、市民への投票権も一切認めない、皇帝による独裁である。
しかしそれでも、この最悪のはずの“アメリカ帝国”へと向かうヨーロッパからの移民が絶えることはない。

なぜこのようなことが起きるのだろうか。
理由は簡単で、ゲームシステムによって、南北アメリカ大陸には強烈な移民ボーナスが付与されているからだ。
このボーナスは恒久的なので、アメリカ大陸の国家がどれだけ抑圧的であろうと、ヨーロッパ諸国がどれだけリベラルであろうと、人々はハーメルンの笛吹に導かれるが如く、ヨーロッパからアメリカへと移住していくのだ。

あるいは『Europa Universalis 4』。
北ドイツの雄、プロシアには「陸軍指揮+20%」、「歩兵戦闘力+20%」などといった、様々な陸軍ボーナスが設定されている。そのため陸戦での強さは圧倒的だ。同数で負けることは、ほぼないと言っていい。
そしてこのボーナスはプロシアがプロシアである限り、なくなることはないのだ。

ご存知の通り、アメリカという国家はヨーロッパからの移民により成立し、そして移民によって超大国まで発展した。
またプロシアはその強力な軍事力によって、ドイツ統一の主導的な役割を果たすことになる。

その史実をゲーム上で再現すべく、それぞれに相応しい国家特性がアメリカとプロシアに付与されているのだ。
アメリカはアメリカらしく、ドイツはドイツらしく、ということである。

プロシアは強い。なぜならプロシアだから。

この設計のメリットは極めて明確で、各国家のゲーム上での挙動を史実に近づけることができるという点にある。

一方でデメリットとなるのは、前述した『Victoria 2』の“アメリカ帝国”のように、展開によっては不自然な状況が発生してしまう可能性があることだ。

またゲームシステムの肥大化も軽視できない。
トルコにはトルコ、日本には日本といったように、世界中の国家にそれぞれの国家特性を付与していくと、ゲームシステムはどんどん複雑になっていく。さらに宗教や民族にも特性を付与していくと、システムの肥大化に歯止めが効かなくなる。

結果、『Europa Universalis 4』は実に36本もの追加DLCをリリースし、現在稼働しているゲームで、最も複雑なシステムを持つゲームの一つとなった。

しかしこの設計の最大の問題は別にある。
国家の特性の要因を、その国家の存在そのものに求めているため、

プロシアは戦争に強い。なぜならプロシアだからだ。

という、ある種のトートロジーを生んでしまうのだ。

そしてParadoxはこれを良しとしなかった。

Paradoxは歴史を単なる題材とするのではなく、その時代における人類社会の仕組みをゲームシステムで再現することを目指し続けてきたゲームメーカーである。
彼らはより論理的で、野心的なシステムを『Victoria 3』に搭載しようと考えたのだ。

Paradoxが挑む新しい理。

Paradoxが『Victoria 3』において試みたのは、各国家にふさわしい特性を与えることではなく、それを生む要因自体をゲームメカニクスで再現することである。
そのメカニクスが機能することで、結果として「移民を集めるアメリカ」や「戦争に強いプロシア」が生み出されるという考え方だ。

例えば「移民」。
Victoria 3』では、移民の流入量は基本的に政策によって決まる。特定の国家が移民ボーナスを持つということはない。
国境を開放し、多文化主義を採用し、政教分離を実現し、十分な経済力があれば、移民は生活を求めてあなたの国にやって来るだろう。

つまり、移民が流入するには一定の条件があり、それを満たせばどの国であろうと移民は流入してくる。
この条件に一番近いのがアメリカであることは確かだが、アメリカがアメリカだからという理由で移民を集められるわけではない。

各国家はそれぞれに与えられた特殊能力ではなく、共通のゲームメカニクスとルールに従って、移民を集めたり、経済力や軍事力を高めたりする。移民国家や、強大な軍事国家が生まれるのは、あくまでその結果である。

これが『Victoria 3』の理だ。

世界をグローバルルールで記述することで、多様性が失われる。

しかし残念なことに、現状ではこの『Victoria 3』の新しい理は、成功を収めているとは言い難い。

前述した、どの国でプレイしても「経済発展」と「政治改革」の過程と結果が同じになってしまうのは、まさにこの理が原因だからだ。

『Europa Universalis 4』では国家や宗教によって、それぞれのローカルルールが設けられていた。だからプレイする国家によってゲームプレイに違いが生じる。

一方、『Victoria 3』ではどの国も固有の特性を持たず、プレイヤーとその国家はゲーム上のグローバルルールに従う。どの国家もそこから逃れることはできない。
そのためどうしても、ゲームプレイは似通ってしまう。

もちろん、日本でプレイした場合と、アメリカでプレイした場合で、両者を隔てるものが何もないわけではない。

一つは、初期条件だ。
アメリカがゲーム開始時から議会制民主主義を施行しているのに対し、日本は幕府による専制政治である。日本は政治改革を進めてよりリベラルな体制に移行していく必要があるが、アメリカとの差を埋めるのは容易なことではない。

また自国内の資源の多寡や、周辺国との外交状況といった地理的要因も国家によって異なる。

もう一つは歴史イベントである。
一定の条件によって起こる個別のイベントが、国家ごとに用意されており、例えば日本の明治維新は、このイベントがトリガーとなって引き起こされる。
しかし『Europa Universalis』のような状況を一変させるほど劇的な効果があるものは少なく、どちらかというとボーナスポイントを付与するような性格のものである。

このあたりは、決められた筋書きに沿って歴史が展開していくことは避けたいとするParadoxの考えが垣間見える。

しかしゲームプレイの多様性を生むには、初期条件と歴史イベントだけでは十分でないようだ。

初期条件の違いは結局のところ、0からスタートするか、50からスタートするかの違いでしかないし、歴史イベントは前述のとおり、効果が控えめだからだ。

世界をグローバルルールで記述し、初期条件と変数のみで歴史の多様性を表現しようという試みは、非常に困難だ。『Victoria 3』と同じコンセプトで人類文明の歴史を表現しようとしたインディゲーム、『Orbi Universo』も同じくゲーム展開の多様性の少なさに直面している。

実際の人類の歴史は舞い落ちる落ち葉のように、風に揺られて右へ左へと揺れ動いてきた。この揺らぎを歴史ストラテジーゲームで表現するのは一朝一夕にはいかない。

それは単に変数を増やしていけば解決するのか、それとも別の何かが必要なのか、誰も知らないその答えを、Paradoxは探ろうとしている。

それは夢、見果てぬ夢。

多様性の少なさは、ゲームプレイの味気なさを生む。当然、現状の『Victoria 3』に対するプレイヤーの評価は芳しくない。

しかし私は、この『Victoria 3』におけるParadoxの試みを極めて、極めて高く評価している。
ゲームとしての完成度は現状、厳しい出来であると言わざるを得ない。そしてそれが改善されるかどうかも、不透明だ。

仮に『Victoria 3』が今後のアップデートで改善が見られなかったとしても、それでもこの作品を支持することに私はためらいはない。

その理由は、世界をグローバルルールで記述しようとするParadxの試み、そのものにある。

世界をグローバルルールで記述すること。
それはこの世界を理解することと同義と言ってよい。
我々の祖先が空を見上げて、「世界」の存在を知ったあの日から続く宿願である。

例えば科学界の見果てぬ夢である「統一場理論」は、基本相互作用の4つの力を統一して記述することを目指している。アインシュタインが30年にわたって探し求め、しかし叶わなかった夢である。

この世界のあり様を知りたい、ルールを理解したいという願いは、知恵を得た人類の本能と言えるものだ。

だからこそ私は、2007年の『Europa Universalis 3』の大失敗に打ちのめされることなく、グローバルルールによる世界の記述に再び挑むParadoxの姿勢に感銘を覚える。

映画はある事象や場面を表現することはできるが、それを生み出している構造を再現することはできない。しかしゲームにはそれができるのだ。
ならば表面的に事象を再現することに満足することなく、それを生む構造までを再現しようというParadoxの執念を支持しない理由は、私には、ない。

しかし、それは長い道のりだ。
場の統一も、Paradoxの夢も。


Victoria 3

steam : https://store.steampowered.com/app/529340/Victoria_3/?l=japanese

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