『三國志』の武将プレイが評価できない理由
2024年10月24日、コーエーテクモより『三國志8 リメイク』が発売された。2001年に発売された同社の『三國志8』の20年振りのリメイク作である。
コーエー(光栄)の『三國志』シリーズ作品は、大きく2つの系統に分かれる。勢力全体をコントロールして中国統一を目指す「君主プレイ」と、君主を含めた一人の登場人物となって、時代を生き抜く「武将プレイ」である。
『三國志8 リメイク』は後者の「武将プレイ」の作品となる。
最初に断っておくと、私は現状の『三國志』シリーズの「武将プレイ」には懐疑的だ。
つまらないというわけではない。むしろかなり楽しんでいるプレイヤーの一人だ。
しかしその「楽しさ」は長年、光栄歴史シミュレーションゲームをプレイし続け、よく調教された光栄信者としての信心に由来するものであり、ゲームとして「武将プレイ」を評価できるかというと、大いなる疑問符を付けざるを得ないというのが正直なところである。
今回は『三國志8 リメイク』のレビューとともに、『三國志』における武将プレイの問題点を考えてみたい。
君主プレイが描けない『三国志』とは。
コーエー(光栄)の『三國志』はご存知の通り、中国の三大奇書である『三国志演義』を題材としている。ちなみに三大奇書の残り二つは、『水滸伝』と『西遊記』である。
このことから分かるとおり、『三国志演義』は歴史をベースとしながらも、エンターテイメント性を意識した英雄譚として位置付けられている作品だ。
そこから生まれたコーエー(光栄)『三國志』の魅力も、個性的な武将たちの織りなす物語が大きなウエイトを占めているのは間違いない。
しかし『三國志』シリーズの正道である「君主プレイ」では、この武将たちの物語や魅力の一側面しか描けていないように思える。

「君主プレイ」は国取りストラテジーゲームの体裁をとっているため、基本的には国家のあらゆるリソースをプレイヤーがオーガナイズできる。
金や兵糧だけでなく、配下の武将もプレイヤーが自由に動かすことができるのだ。
しかしプレイヤーが配下の武将を自在にコントロールできるとした場合、趙雲や張遼といった良将ならともかく、「わたしは故あれば寝返るのさ」を地でいく呂布のような武将の魅力は半減してしまうとも言えるのではないか。
天下無双の武を誇りながら、誰にも制御不能で、その時々の状況に応じて衝動的な行動をとるのが呂布という武将の魅力のはずだ。
プレイヤーの完全な制御下に置かれ、ただ戦闘に強いだけのユニットと化した呂布にはたして魅力を感じるだろうか?
私にはまさに、牙の抜けた虎のように見えてしまう。

あるいは関羽を窮地に陥れることになった糜芳は、ゲーム中ではただ単に使えないザコ武将として、後方の安全地に放置されるだけだ。彼の小物っぷりは『三国志』という物語における英雄たちの引き立て役としていいアクセントになっているのだが、それがゲーム中で発揮されることはない。
もっと言えば、『三国志』の主人公と言っていい劉備にしても、その最大の武器である人間的魅力をゲーム中で十分に表現できているとは言えないのだ。
つまり「君主プレイ」では、プレイヤーの立ち位置が国家(勢力)全体をコントロールできる、ある種の超越的な立ち位置であり、ゲームプレイの達成目標が領土拡大であることから、それぞれの武将が中国統一へ向けた戦争や内政で役に立つか否かという点でのみ評価されてしまう。そのため『三国志演義』における彼らの個性が、ゲーム中では浮かび上がってきづらい。
どうしても強いか、弱いかでしかキャラクターを表現できないのだ。

それ以上の表現は、個々のプレイヤーのゲームプレイ上の裁量によって補われることになり、その時のテーマに沿って、あえて弱い武将を重用してプレイするという、ある種のロールプレイを実践することが『三國志』プレイヤーの定番のゲームプレイとなっている。
『信長の野望』も含めて言えることなのだが、ゲーム体験の質がプレイヤーの裁量に委ねられ過ぎている点は、コーエー歴史シミュレーションの課題であると言っていいだろう。
ゲーム的にも、マーケティング的にも、だ。
マクロのストラテジーで見せる、ミクロの物語。
だからこそコーエー(光栄)は、『三國志』シリーズをより魅力的な作品とするべく、マクロ視点となるストラテジーゲームの中で、いかにキャラクターの魅力というミクロな事象を表現するかという命題を長年にわたって追求し続けた。
その答えの一つとなるのが「歴史イベント」だ。
ゲーム中で条件が満たされれば、ムービーやビジュアルを用いた歴史ドラマが挿入される。
前述した呂布の傍若無人っぷりは、地位や領土や女に釣られて、次々と主君を裏切っていく一連の歴史イベントによって表現されているのだ。
しかし、スクリプトされた物語を強引に差し込んでいくこのやり方は本来、あまり多用すべきではないと私は考えている。この点に関しては、また別の機会に書きたい。

そしてもう一つのアプローチとなるのが、武将のステータスを細分化することで、武将の個性を表現することであり、これこそがコーエー(光栄)『三國志』を偉大なるゲームシリーズへと押し上げている要因と言っていい。
例えば武力90の武将と、武力80の武将がいれば、どう見ても武力90の武将が上位となる。
もしこれを覆すとすれば、前述したとおり、プレイヤーの裁量以外には考えられない。
コーエーはここに、武将ごとに史実に沿った特性を付与していくことで、個性を表現していく。山での戦闘に強い、水上戦に強い、行軍速度に秀でている、などといった特性である。
こうすることで、単純にステータスの数値だけで上位下位を固定化することはできなくなり、戦場の局面やプレイスタイルによって有効に機能する武将は変わってくる。

さらに「君主プレイ」の最新作となる『三國志14』では、武将の特技だけではなく、短所も表現されることになった。
いわゆる「赤個性」と呼ばれるものだ。
これは特定の状況において、その武将がネガティブな効果を発揮してしまうというものだ。
特に「猪突」という赤個性は素晴らしい。
この特性を持った武将は、敵軍を前にするとプレイヤーの操作を受け付けず勝手に攻撃を仕掛けてしまうのだが、こうすることで張飛や馬超といった後先考えずに突っ込んでいく猪武者を、ゲーム中で表現することに成功している。
個人的には、もっと多くの赤個性を、より多くの武将に付与してもよかったのではないかと思う。

とにもかくにも、マクロ視点となるストラテジーゲームの中で、いかにキャラクターの魅力というミクロな事象を表現するかという『三國志』シリーズの命題は、『三國志14』にて一つの到達点に達したと言って間違いない。
ミクロの視点から描く、マクロの物語
しかし戦闘における立ち回りとしての武将の個性は表現できる一方で、あいつが好きだ、あいつは許せない、といった英雄、凡将、女たちが入り乱れる『三国志演義』の物語を十分に再現することは、依然として難しい。
どこまで行っても戦闘で役に立つか否かでしか、それぞれの武将を表現するしかなく、人ならではの非合理な愛憎渦巻く人間ドラマは、専ら歴史イベントで見せることしかできないのだ。

そういった「君主プレイ」の限界に対して別のアプローチを試みるのが、2000年に発売された『三國志7』から連なる「武将プレイ」シリーズである。
自勢力下の武将を全てコントロールできる君主プレイに対し、武将プレイで操作できるのはゲームスタート時に選択した武将一人のみ。
その武将を操って自勢力を中国統一に導いてもよし、反乱を起こして独立してもよし、他勢力に寝返ってもよし、といった自由度の高いプレイが大きな特徴だ。
また武将同士の関係性がフォーカスされており、友情や憎しみ、あるいは結婚といった関係を結ぶことができることで、劉備、関羽、張飛の義兄弟の絆や、諸葛亮と司馬懿のライバル関係といった、三国志を彩る人間ドラマを浮かび上がらせようと試みている。

つまりマクロ視点に立つ「君主プレイ」では、人間関係というミクロな描写が犠牲になっていたのに対し、「武将プレイ」ではミクロの視点に立つことで、その武将同士の人間ドラマを描くことを目指している。
それによって戦略性はやや犠牲になるかもしれないが、「君主プレイ」と「武将プレイ」の2つのシリーズが相互補完することで、マクロとミクロの両面から「三国志」を描き、その魅力を多角的にプレイヤーに伝えることができるはず。
おそらく、これがコーエーの考える「三国志」へのアプローチだろう。
それは実に野心的で、実に魅力的だ。

だから私は「武将プレイ」というアプローチそのものは非常に素晴らしいと感じている。
まさに英断と言っていい。
「三国志演義」という物語の性質上、「武将プレイ」の方がその魅力を引き出すことができる可能性が高いはずなのだ。
ではなぜ、冒頭に述べたように私は現状の「武将プレイ」に懐疑的なのか。
それはミクロ(武将)の視点から「三国志」を描くという素晴らしいコンセプトが、あまりゲームシステムに反映されていないからだ。
スタート時こそミクロ視点から始まるゲーム性も、ゲームが進行するにつれて視点はどんどんマクロ化していき、最終的には「君主プレイ」とあまり変わらないゲーム性に回帰してしまう。
これでは「君主プレイ」の劣化版ではないか。
随分と前置きが長くなってしまったが、ここからは武将プレイ最新作となる『三國志8 リメイク』を見ながら、この点について述べていきたい。
ゲームシステムは良くも悪くも、シンプルにまとまっている。
『三國志8 リメイク』の基本的なシステムは、公式サイトを含めて様々な場所で紹介されているので割愛するが、全武将プレイという野心的なお題目の割には、あるいはそれ故か、非常にシンプルだ。
これはオリジナルの『三國志8』をプレイしたときにも感じたことでもあるが、『三國志8 リメイク』でもそれは変わらない。

三国志に登場する武将を一人選択してプレイをスタートし、ゲーム中の武将たちと交流することで能力値を高めて成長していく。交流して信頼を高めた武将と連携することで、戦闘では大ダメージを叩き出すことができるようになるし、内政ではより早く都市を発展させることができる。
そうして成果を上げ続けていけば勢力内で出世していき、より広範な権限を与えられ、人事権や外交などできることが段階的に増えていく。
最終的にそのまま主君を助けて中国統一を目指してもいいし、同志を集めて反旗を翻して自分が君主として成り上がってもいい。
おそらく5〜6時間もプレイすれば、ほぼ概要は掴めるだろう。
君主プレイ作品と比べると、良くも悪くもハードルは低い。
退屈な単純作業になりがちなゲームプレイ。
もちろんゲームプレイがシンプルであることは悪いことではない。
ひとつひとつのアクションが単純であっても、そこにプレイヤーが判断すべきことであったり、何らかのプレイヤーの意思が込められるものであれば、そのシンプルさが大きな武器になる。
『スーパーマリオブラザーズ』は、ゲーム中のアクションのほとんどが「走る」と「ジャンプ」で構成されているが、どこでジャンプするのか、どこに着地するのか、いつ走り抜けるのか、といった判断が常にプレイヤーに求められており、それがゲームとしての楽しさに繋がっている。
しかし『三國志8 リメイク』は何も考えずにただクリックする、というアクションが少々多すぎる。

ゲーム中でプレイヤーがやるべきことはそれなりに多い。
都市の民心をアップするために施設の見聞を行ったり、親密度を上げるために武将を訪問したり、鍛錬で自分のステータスを上げたりと、何もすることがないという状態にはならない。
しかしこれら実行頻度の高いアクションがとかく単純作業になりがちだ。
例えば鍛錬か交流か、どちらを優先するかという判断も、ゲーム展開にクリティカルな意味を与えることはほとんどないし、プレイヤーのアクションに対するゲームのリアクションもパターンが限られていて、ほぼ予測通りの結果を返してくる。
前述したとおり、ゲームとしての底がかなり早い段階で見えてしまうのだ。
ゲームのクリア条件として中間エンディングが豊富に用意されており、「君主プレイ」に比べてワンプレイが短時間で決着するので、リプレイ性が高いのは確かだ。
しかしそれがむしろ仇となっており、どの武将でプレイしても同じことの繰り返しをしている印象を強くしてしまっている。
いや、印象ではない。
実際、どの武将でプレイしてもやることはあまり変わらないのだ。

譜代の光栄信者として擁護するならば、「君主プレイ」のように戦略性や意味を与えてしまうと、ゲームプレイの「遊び」の余地が失われてしまうため、一つ一つのアクションの意味を軽くしているのだと言うことはできる。
つまりプレイヤーが戦争に勝つことから逆算して行動するのではなく、より衝動的、趣味的に行動する余地を与えたい。その時の気分で隣の武将に会いに行ったり、関羽や張飛に一騎打ちを挑んでみたり、あるいは下野して放浪軍になったりといった自由度を確保するためには、展開に決定的な影響を与えるアクションはなるべく控えたいのだろう。
しかし『三國志8 リメイク』は、プレイヤーが繰り出すアクションの意味が薄すぎるため、エモーショナルの動きがあまりに小さすぎる。これでは「退屈」という二文字が頭をよぎっても仕方ない。
本作品が20年前の作品のリメイクであるというエクスキューズも散見されるが、『三國志8 リメイク』は『ドラゴンクエスト』のリメイクのようなノスタルジーを求められる文脈の作品ではない。
20年前の作品を現在の技術で作り直せば、こんなに素晴らしいゲーム体験になるということをアピールしてほしかった。
我々、光栄信者に、20年で歴史シミュレーションシリーズはこんなに進化したんだとアピールしてほしかった。
残念である。
オーソドックスながら、爽快感のある合戦。
それでも救いがあるのは、オリジナル『三國志8』でボトルネックとなっていた合戦は大きく改善されたことだ。
全体としてはオーソドックスなターン制バトルで、特に革新性のあるコンセプトは盛り込まれていない堅実なつくりであるが、それ故にプレイヤーが育てた武将の活躍で戦況を打開していく実感を存分に味わえる。
親交を深めて「相生」となった武将と隣接して攻撃すると、敵軍に与えるダメージにバフが加わる。武将の組み合わせによっては、バランスブレイカーのようなダメージを叩き出すこともあるが、プレイ武将とその仲間たちで戦況を覆していくのは「武将プレイ」のアウトプットとして相応しいと言える。

私は特に、一般武将として合戦に参加し、自分の武将のみを操作して戦うのが楽しい。自分以外をコントロールできない❝ままならなさ❞が「武将プレイ」らしいゲームプレイだと思うからだ。
戦場マップがやや味気ないのと、本拠地(特に防衛側の城)が戦術上、ほとんど意味がないという点は残念であるが、及第点を与えられる出来と言える。
ある意味で、上級者向けの『三國志』である。
とはいえ合戦以外のプレイにおける起伏の乏しさは、覆い隠せるものではない。
では『三國志8 リメイク』は何を楽しむゲームなのか。
総じて言うならば、プレイそのものよりもシチュエーションを楽しむゲームと言えるだろう。

李儒、李傕、郭汜、華雄の董卓四天王で覇権を目指す、
顔良、文醜で斜陽の袁家を支える、
黄巾残党を再結集する、
などといった自分なりのシチュエーションを作りあげ、それに価値を見出せるか否かが、『三國志8 リメイク』を楽しめるかどうかの分水嶺となるはずだ。
前述したコーエーの歴史シミュレーションの「ゲーム体験の質がプレイヤーの裁量に委ねられ過ぎている」という点で、それが極まった作品が『三國志8 リメイク』だ。
だから、これまでの『三國志』シリーズに通じたプレイヤーであれば、自分の考えるIFのシチュエーションを実現させることのできる舞台装置として、存分に楽しむことができる可能性は十分にある。
ゲームプレイのシンプルさとは裏腹に、ある意味で極めて上級者向けの『三國志』だと言える。

おそらく『三國志8 リメイク』が万人に対して魅力を発揮するのは、『三国志』に詳しく、ストーリーテリングに長けたゲーム実況者による実況プレイを視聴する時だろう。
しかしそれをゲーム作品として評価できるかというと、そうはならない。
結局、マクロの視点からしか『三国志』を描くことができていない。
『三國志8 リメイク』という作品単体の私の評価は概ね以上であるが、冒頭に述べた通り、本作品を通して見えてくる『三國志』シリーズの「武将プレイ」そのものの問題点を二つ、最後に提示したい。
一つは、ゲームが進行するにつれて「君主プレイ」と変わらないゲーム性に回帰してしまうことだ。
「武将プレイ」作品ではお馴染みだが、操作武将を活躍させて勲功を積ませることで、一般武将から、太守、軍師、都督といった上位の身分に出世していくことができる。
このこと自体は歓迎すべきことだ。
出世は武将の本懐である。
しかし困ったことに、出世するにつれて、どんどん「武将プレイ」の良さが失われていってしまう。

『三國志8 リメイク』を含めた「武将プレイ」における最上位身分の君主は、結局のところ「国家(勢力)全体をコントロールできる、ある種の超越的な立ち位置」とほぼ同様の権限を与えられている。つまり「君主プレイ」と変わらない。
そしてそれ以下の身分は、君主から利用可能なコマンドを削っていくという形で表現されている。
一般武将の身分でコントロールできるのは基本的に自分だけ(特権を使用することで一時的に権限を拡大できる)だが、太守に出世すれば自分の担当都市全体をコントロールでき、さらに都督になれば複数の都市をコントロールすることができる。
また君主付きの軍師になれば、勢力の外交権を与えられる。
そして上記の通り、君主は勢力全体の、全ての権限を有している。
つまりプレイヤー武将を出世させることは、ゲームプレイをどんどん「君主プレイ」に近づけてしまうことと同義なのだ。

『三國志8 リメイク』では、勢力間の軍事バランスが固定化することが多く、それを打開するためにプレイヤー武将を出世させ、より大局を動かす権限を獲得する必要がある。
そのため「武将プレイ」を楽しめる時間はそれほど長くなく、気が付くと「君主プレイ」と変わらないゲーム性に落ち着いてしまう。
これでは良く言っても、「君主プレイ」のアレンジバージョンとしか言えない。
あるいは、マクロ視点の「君主プレイ」では描けない武将同士の人間ドラマを、ミクロ視点の「武将プレイ」で表現する、という私の解釈が間違っているのかもしれない。
しかし、だとするとコーエイが「武将プレイ」で何を表現したいのかが分からない。
「君主プレイ」で表現できないものを表現してこそ、「武将プレイ」の意味があるのではないか。
カクテルの価値、友情の価値。
そしてもう一つの問題点は、プレイを通して構築した人間関係の価値の示し方が一面的であるということだ。
「武将プレイ」では、親交を深めた武将と一緒に戦場に出ると、さまざまな効果を得ることができる。
前述した通り『三國志8 リメイク』では、相生となった武将と戦場で隣接していれば、与ダメージにボーナスが入る。
あるいは対立関係である「相克」となった武将とは、何度も戦場で対決することになる。
このシステム自体は良いと思う。
しかし人間関係の成果を示す場所が、概ね(子供を授かるなどの一部のイベントを除いて)戦場にしかないというのは、友情やライバル関係といった価値を一面的にしか描けていないのではないだろうか。

『サイバーパンク2077』では、その舞台となるナイトシティに多くのバーが配置されており、プレイヤーはそこでカクテルを購入することができる。
購入したカクテルはインベントリに格納され、それを使用すると与ダメージにボーナスが付いたり、HPやスタミナの回復が早くなったりする。

しかし戦闘のボーナスを期待してカクテルを購入するプレイヤーがいったい何人いるというのか。
よしんばいたとしても、カクテルの価値を戦闘のバフ効果で表現するのが妥当だとはどうしても思えない。
普通のゲームであれば、こんなことは気にならない。いつものことだからだ。
しかし『サイバーパンク2077』のナイトシティは、ゲームの新しい扉を開ける寸前まで行った。偉業である。
それだけに、そこにあるものの価値が戦闘に役に立つかどうかという価値観に偏り過ぎているように私には思えて、その点が残念だった。
『三國志』シリーズの「武将プレイ」も同様だ。
そこでフォーカスされている人間関係の価値を、合戦に役に立つかどうかでしか表現できないとしたら、それは「君主プレイ」と変わらない。
強いか、弱いかでしかキャラクターを表現できていないのだ。

韓玄や曹豹と親交を結ぶ意味を、「プレイヤーの趣味」以外に示してほしい。
『三國志14』のようにステータスを細分化して、戦場で何らかの役割を与えるというだけではなく、「君主プレイ」とは違う「武将プレイ」ならではの価値観を提示してほしいのだ。
それは大雑把に言えば、恋愛シミュレーションのゲーム目的ような、有形の効果を伴わない価値なのかもしれない。
無茶なことを求めているのは承知している。
しかし光栄は常に、「新しいゲームの形」を私に示してくれた。だからこそ期待してしまうのだ。
だってオラは光栄信者だから。
歴史シミュレーションゲームのプレイヤーにとって、コーエーは当たり前の存在になり過ぎていて見逃されがちだが、ストラテジーというジャンルの割にはかなりチャレンジングスピリットに溢れた存在だと私は思う。
かつて『維新の嵐』や『水滸伝 天命の誓い』、『大航海時代』などといった、ある種向こう見ずとも言えるほど挑戦的な作品を送り出してきた血脈は、時代とともに薄まったとはいえ、いまでも絶えていない。
成功することもあれば、失敗することもある。
近作の『三國志14』や『信長の野望 新生』は、本当に楽しませてくれた。
『信長の野望 大志』は珍しく、私にとってプレイするのが苦痛な作品だったが、それでもそこで表現しようと試みていることは十分に伝わってきた。

しかし、こと『三國志』の「武将プレイ」シリーズになると、あまりに無難に、安全にまとめようとするあまり、その素晴らしい試みが秘めるポテンシャルの半分も活かせていないように思えてしまう。
何を表現したいのかが、今ひとつ見えてこない。
もはや光栄時代のように、「面白そうだから作ってみようぜ!」という理由で大立ち回りができるような規模の企業ではないことは承知している。
それでもやはり、コーエー歴史シミュレーションゲームにはチャレンジャーであってほしいと願いながら、私は次の三國志「武将プレイ」を楽しみに待ちたい。
結局のところ、私は光栄信者なのだ。
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私が何となくモヤモヤと感じていたけど上手く言語化できなかった不満が文章として明示された良レビュー。太守に任命されるあたりでプレイがダルく感じられて再走しちゃう理由はまさにこれだわ。
8 REMAKE with PKが出るらしいけど、どうすっかな。
三国志シリーズで8PKが最も好きで今でもたまにプレイしています。
リメイク版が出るということでかなり期待しましたが、買う意欲すら出てきませんでした。
ぱっと見「8」ではない。システムが複雑化しているように見受けられる。
サクサク進めてどんな子供が生まれるかを期待することが一番の楽しみ。
君主だと太守を管理していないと、野心のある武将が勝手に攻める、太守になる、都督になる、反旗を翻す。
このパターンでゲームクリア寸前、配下だった司馬懿に中華統一されたことが自分の中では伝説となっています。
YouTubeの実況動画だけ見てる勢ですが、めちゃくちゃ共感できました。まあ発売前からやはりこうなるんだろうなあとは思ってたんですけどスキルゲーやクリックゲームはあまりしたくない…。君主プレイでは部下が勝手に動いていくの見たいですね。
冷静かつ熱い素晴らしいレビュー。
コーエーが今までできていないけどやりたいことを突き詰めた結果をみんな見てみたいんだよ。
みんなコーエー好きだから。
突然のシーマさま!
良いレビュー。
「私は三国志14じゃなくて8をプレイしたいんだ!」という人は、要するに武将プレイならではの無力さ、理不尽、それでも手の及ぶ範囲で勢力に貢献していく生き様、そういったものに乱世の醍醐味を感じる人だと思う。極論言うと「努力すれば天下統一できるバランス」という土台さえ不要なんじゃないか。
手柄を立てて出世するのが楽しみで戦功を上げてたはずなのに、いざ昇進すると君主プレイに近くなり飽きてしまう。よくよく考えてみると、現実世界では例え出世したとしても、そこで起きる全ての事象をコントロール出来るわけではない。言う事を聞かない部下、無能な上司、出世のライバル、圧倒的に不足した情報量、そういったストレスを思い切ってプレイヤーに与えてくる意欲作が今後出てくればと思う